「人間を敬う生き方を」 07.06.24
エフェソ6:1〜4
「父の日」も「母の日」も、教会から生まれた行事です。
父母への感謝と共に、父母を与えてくれた神さまへの
感謝をする礼拝から始まりました。どんな人間にも父母が
います。父母は、自分という存在の源ともいえます。
父母を敬うことは、十戒をはじめ聖書でたびたび語られて
いますが、それは単なる親孝行の勧めというだけでなく、
神さまの与えてくださった父母を敬い、重んじるように
言われるのです。
父母が敬うに値する人間かどうかは問題ではありません。
敬い重んじるのは、自分の存在の源として神さまが与えて
くださった父母であるからです。つまり、神さまは、父母の子と
して、自分を存在するものとしてくださったのです。父母を敬い
重んじることは、父母だけでなく、その子である自分自身の
存在を重んじることへつながります。「そうすれば、あなたは
幸福になる」(3節)と言われます。それは、神さまの心が向け
られて、その父母の子として存在している自分であることを
知るからです。自分の存在に、神さまの意思が込められて
いることを受け止めることで、健やかな歩みが生み出されて
いくからです。
どんな人間も弱さや欠けを抱えています。そこに目を
奪われて、父母を敬うことができないことがあるかも
しれません。それによって、自分自身がぐらついていきます。
自分の存在の源を敬うことができず、肯定できないならば、
自分自身を肯定することもできません。
それは、辛く、悲しい人生です。
しかし、聖書は、「あなたは、敬えないところから生まれた
のではない。父母を敬ってよい。」と語るのです。父母と自分に、
神さまの意思が向けられているということは、神さまに
肯定されているということです。
罪人をさえ愛し抜かれる神さまの深い愛は、私たちに、
父母を愛し敬う心を起してくれます。
父母に対して素直になれない時に、父母の介護に
疲れた時に、神さまのご愛に心を向けたいのです。
私たちは、神さまの愛に励まされ、勇気づけられ
ながら歩むのです。